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ナスカの地上絵 ハチドリ

バスの中からアンデスの山々

マチュピチュを背景に

2000年5月 旅行記 

インカへの旅

はじめに

 南米のペルー(Peru)を選んだのは、空中都市マチュピチュをこの目で実際に見たい思いが断ち切れなくなったからだ。ここを中心にナスカの地上絵、チチカカ湖などペルーには歴史に残る遺産がふんだんにある。しかし南米はやはり遠い。4/29から5/9までの11日間であるが、もちろん直通のフライトはなく米国経由で正味7日間の思いを新たにした旅であった。



 
ペルーは図に示す通りコロンビア、エクアドル、ブラジル、ボリビア、チリの5カ国と国境を接している。国土の30%のシエラと呼ばれる山岳地帯、10%のコスタと呼ばれる海岸砂漠地帯、残りの60%は以外にもアマゾンの源流の熱帯雨林セルバである。乾燥した海岸砂漠から氷河の迫り出る雪山、熱帯ジャングルのアマゾンまで存在する国である。最近早稲田大学の学生が殺されたのもペルーのアマゾンであったと記憶している。

遠きリマ(Lima)への旅 

 ペルーは日本の国土3.4倍の面積に人口2800万。そのうちリマに800万人が住む。成田を4/29に出発しリマのホテルに入ったのが、とにかく次の日の朝であった。時差の関係で何時間かかったがよく分からないが、シカゴ、マイアミ経由で夜か、昼か判然としない中、たどり着く。その日はホテルに入り少し横になったが時差の関係か、南米に来た興奮のためか眠れず朝早くリマの街を見て回る。首都リマはインカ帝国の征服者ピサロが建設した都市であるが、人々の顔もスペイン系が多くインディオの顔があまり見うけられないスマートな街だ。
アルマス広場を中心にフジモリ大統領の官邸、サントドミンゴ教会など見て回り天野博物館に立ち寄った。この博物館は天野芳太郎さんが1950年にペルーに渡って自費で遺跡の発掘作業を行い私設博物館を建てたのだ。
天野さんはもう亡くなり、奥さんがガイドを兼ね博物館を守っている。奥さんは日系二世であるが、上品な方で館内を2時間以上、プレインカ時代の貴重な土器、織物など手に触れさせて戴きながら丁寧に説明して戴いた。特に紀元前1000年頃のチャンカイ文明の研究に優れ、織物、編み物、愛嬌のある独特な土器など素晴らしい。館内の見学は無料であり、中で土産物を売って維持しているようであり、申し訳なく土産物の財布を買ったことである。

哀しみの美少女フワニータ

 もうひとつ黄金博物館に立ち寄ったが、黄金から武器まで何でも雑多にコレクションしている。その中に数多くのミイラが保存されている。インカの全盛期の15世紀くらいのミイラで中に頭蓋骨の治療の痕がある。頭蓋骨が四角状に割られそこに金属片をはめ込みそれをおおうかのような頭蓋骨の発達の痕が見受けられる。手術後生きていた証となっている。

 旅行中から新宿の三越でインカ帝国の展示が行われているが、その中に少女のミイラの展示がある。最近アンデス山系6310mアンパト山山頂付近の氷の中から冷凍状態で発見されたミイラでフワニータと名づけられている。アンデスの人々は、明らかにアジア大陸に起源を持つ人々であるといわれている。氷河期、シベリアから北米アラスカまでが陸続きなっていた時代にアジアから渡ってきた。北米から中米を通り南米、アンデスに達したという。
グレイトジャーニーと呼ばれ、現在医師の関野さんが逆回りに実証している。紀元前3000年を過ぎる頃から定住生活を始めたアンデスの人々はやがて神殿を築くようになる。そして、この神殿と信仰を中心に、社会が形成されていく。フワニータが埋葬されたのは今から約500年ほど前のインカ時代のことだと推測される。15〜16世紀に花開いた一大帝国インカ。クスコを中心としコロンビア南部からチリ中部、ボリビア、アルゼンチンまで含む100万km2に及んだ。1532年ピサロ率いる200名たらずのスペイン人にあっさり征服され終焉を迎えたのであった。
インカで最も重要な神は、ビラコチャ(創造主)、インティ(太陽)、イヤバ(天候)。それに続きパチャママ(大地の母)。さらに、それぞれの神に子供を生け贄として捧げるカパコチュアという風習があった。フワニータはいけにえとして捧げられるために特別に養育された聖なる存在であったとされる。今考えるからこそ何と残酷と思われるが、当時いけにえになる事は大変な名誉なことであった。中国でも見たが、主人が死んだときの側近の生きたままのミイラなど忠誠、名誉の名のもとに世界のミイラの歴史がある。

くっきりナスカ(Nazca)の地上絵

その日はリマの街を見て回ったが、次の日はいよいよナスカだ。ナスカの地上絵を見るためにはまずリマからイカ(Ica)またはナスカの空港に行き、そこからセスナの遊覧飛行となる。今回はリマから1時間10数人乗りのセスナでイカに入った。ここはこの辺一帯砂漠地帯のオアシス都市である。
イカ空港から4,5人乗りのセスナでいよいよナスカの地上絵遊覧だ。順番に人数が割り振られ体重別なのか席を決められる。パイロットの隣とその後ろ左右に2名ずつ5名乗り込んだ。最初にパイロットが一通り説明する。30分で地上絵のあるところまで行き、30分遊覧飛行、また30分かけて戻る1時間半の行程である。地上絵の説明で乗客3名が日本人のせいか宇宙人、さる、いぬなど日本語が飛び出す。
いよいよ出発で30分山岳地帯、砂漠地帯をとおり地上絵のあるところにさしかかる。突然パイロットが宇宙人、宇宙人(文献には宇宙飛行士と紹介しているが。)と叫ぶ。なるほど遥か下の丘の中腹に宇宙人の地上絵を発見する。右、左の乗客のため交互に傾き旋回する。ここから次から次へと地上絵が眼下に展開する。さる、いぬ、コンドル、パンアメリカンハイウェイがしっぽを切り裂くとかげ、クモ、ハチドリなどである。意外にもくっきりと見え夢中で肉眼に焼き付け、写真のシャッターを切る。
右に左に旋回が激しく途中から何だか気分がおかしくなる。他の乗客を見ると皆エチケット袋を片手に青い顔してもう地上絵を見ていない。私だけではないのか、食事前で良かったが、生唾がこみ上げる中、何とか写真だけでもと思いシャッターを切る。乗り物酔いを必ずするとは聞いていたが、これほどとは。皮肉にも最後のいい加減に撮ったハチドリが一番くっきりと撮れていた。やっとの思いでイカ空港にたどりつく。苦労しないと得るものも少ないということか。

この地上絵は、1400年以上前に作られ宇宙飛行士だけ丘の中腹に描かれ、あとは全て平面上に描かれている。描くといっても幅20cm、深さ10cmの穴を掘った線でそこに石を埋め込んでいる。近年エルニーニョの関係で比較的多く雨が降り、年々この線がぼやけていくと聞いていたが高度100m程度で今回の遊覧飛行はくっきりと見えた。地上絵は縦、横100m程度(さるで122m、92m)に及びやはり空中から見ないと識別出来ないであろう。
誰が何のために、これが最大の謎でこの地上絵に一生をささげ、ミラドール(観測塔)を建設したマリア・ライヘ女史みたいな人が現れるのも不思議ではない。彼女の説は、地上絵はナスカ人のカレンダーだったと解いた。線は太陽、月、星の軌道を表し、絵はナスカ文化の神だった星座を意味しているという。しかし彼女は謎を解くためよりこの地上絵の保存を訴えた。彼女の残した軌跡は大きい。この地上絵が宇宙との関連が取沙汰されているのは何といってもユーモラスな宇宙飛行士の絵と滑走路としか思えない3角上の広大な絵からである。とにもかくにも今回の旅行の目的のひとつのナスカの地上絵を堪能した。

更地の旧日本大使館

ペルーは日本とも関係が深く1899年に790名の南米で最初に移民を受け入れている。またそれは重労働と風土病のため、移民史上最も悲惨な歴史でもある。野生ゴム採取の仕事を求め、隣国ボリビアへアンデスを越えた人もいる。現在、日系人はペルーに八万人、ボリビアに一万人いる。中にフジモリ大統領のような人も輩出しているが、なお貧しい生活に耐えている人々もいる事を決して忘れてはならない。今年100周年という事でセレモニーもあり、フジモリ大統領も来日している。

 テゥパクアマルの日本大使館公邸占拠事件から早2年たつが、その当時の日本大使館は解体され更地になっている。回りは白い塀に囲まれパトカーが停まっていた。このあたりで写真を撮る日本人観光客があとをたたず、この辺一帯は駐車禁止となっている。尚、テゥパクアマルのたてこもった連中は全員死亡と伝えられているが、テレビにも映っていた若い女性など死体があがっていないという。何人かは生きているという説が地元では有力らしい。この事件で自ら先頭に立って活躍したフジモリ大統領は、最近の世論調査によるとまた人気が出てきているという。物価も安定しインフレも収まり、ゲリラ活動も影を潜めているからだ。一位の35%に次ぐ30%の支持率であるが、大統領の任期は二期までであるため、法律を改訂してまで出る気らしい。ペルーの選挙運動も激しいらしく、支持者の家には候補者のシンボルマークが描かれている。因みにフジモリ大統領はジープの絵であり、他に目玉などが大きく家の壁に描かれている。

完全に高山病

 今回の旅は高地といえ、マチュピチュで2300m程度、インカの都クスコ3360m、チチカカ湖3800m、最も高いララヤ峠で4300mであり、去年カラコルムで4900mを経験している私にとって、たかが知れていると気にもとめていなかった。ところが大変な目にあったのだ。リマからクスコへ一気に3000m以上行ったせいか、時差ぼけの寝不足のせいかクスコに着いてから完全に高山病の症状である。頭がいたい、胃がいたい、吐き気がする、手がしびれる、眠い。直ぐにホテルに入り横になる。ここまで来て何とも情けない。次の日、セデスを飲み何とか頭の痛みは消えたが油こい食事は受け付けない。しかしこのまま慣れるまで待てなく、寝ても治らないため予定どおり行動する。クスコから幾つかの遺跡を見学した。特にサクサイワマンの遺跡はクスコの東側を守っていたが、スペイン人に大部分は破壊された。クスコの町の驚異の石材建築は、カミソリの刃1枚すら通さないという精巧さであるが、このサクサイワマンの遺跡は180tもの巨大な石がそのままで、現在の技術でも建築するのは難しいという。

 尚、高山病にはコカ茶が良いと聞く。コカ茶はペルーでは日本の緑茶みたいに一般に飲まれホテルではいつも無料で飲める。魔法瓶を持参したためホテルでコカ茶をお願いする。よく飲みその後すぐに回復したのもこのお茶のおかげかもしれない。現地の人は砂糖を混ぜて飲むのが一般的らしいが、試しに入れて飲んだが確かに竹みたいな特有のにおいが消え飲みやすくなる。コカインの原料で日本国内の持ち込み禁止されているが、葉っぱそのものとMate de Cocaというティーバッグにしたものが売られている。

世界の車窓アウトバゴンの旅

 何年か前TVの「世界の車窓」でクスコからマチュピチュまでのアウトバゴンの様子が映し出されたが全くその通りの光景である。駅に着くたびにインディオの女性が手に手にアルパカのセーター、織物など土産物を乗客に売り込む光景があり、アウトバゴンからアンデスの山々が見える光景である。いつかのんびりこのような車窓の旅をしてみたいと思っていたが現実のものとなっているのだ。クスコからバスでオリャンタイタンボ駅へ行きそこからマチュピチュに近いアグアスカリエンテス駅までアウトバゴンに乗車した。実はペルーの列車はバスよりも遅く、たとえばクスコからチチカカ湖のプーノまでバスで6時間、列車だと何と12時間もかかるのだ。

クスコからアグアスカリエンテス駅(何ともインカらしい響きの良い名前であることか。)までの列車をアウトバゴンというが、美人売り子が真っ赤な服を着て乗車している。飲み物、マチュピチュの本などワゴンに乗せ売っている。あまり買いたくも無い絵葉書とケーナ(竹笛)のカセットを6ドルで買い写真をお願いする。愛想よくポーズをとる美人売り子。コモテリャマス、の問いかけにサラと即座に却ってくる。自分のスペイン語が通じると思わなかったのですぐに二の句が続かない。向こうも何か話したかったと思うが次の車両に行ってしまう。もっとスペイン語を勉強しておくのだった。アンデスの山々を写真に収めたり、そうこうするうちに、アグアスカリエンテス駅に着く。

天空の城マチュピチュ(Machu Pichu)

 アグアスカリエンテス駅はさすがにマチュピチュの最寄の駅で土産物屋などたいそう賑わっている。そこからマチュピチュ・ルーインズホテルまでバスで数十分、ハイラム・ビンガム道路を上り詰める。1911年ハイラム・ビンガムという米国の歴史学者が発見したがその名前をとっている。バスをホテル前で降りるとすぐにあの見慣れた山ワイナピチュが目に飛び込んでくる。マチュピチュとは、老いた峰という意味で、マチュピチュは実際に反対側にある山(3000m)でもあり、遺跡を含む地域全体を指す。ケチュア語でありペルー、アンデス、アマゾンの広い地域のインディオの使う言葉で現在はスペイン語が広い地域で使用されており、ケチュア語のみ話す人は少ない。あの遺跡の背景にある絵になる峰はケチュア語でワイナピチュ(2700m)、若い峰と呼ばれる。マチュピチュ・ルーインズホテルはまさにマチュピチュの入り口に建っている。西洋人、日本人と結構な賑わいで日本の大きな山小屋の雰囲気がする。
その日はホテルに荷物をおき、空身でいよいよマチュピチュに行く。ルーインズホテルはマチュピチュに唯一あるホテルでなかなか予約が取れないと聞くが、ここに泊まり、朝のマチュピチュと2度見る事が出来る。部屋もマチュピチュを望む絶好の部屋であり(確率的に少ない。)ほんとうに運が良い。入場料は10ドルと高いが遺跡の清掃、メンテナンスのために止むを得ない。ちなみに次の日は、半券を見せ半額の5ドルである。少し登るとすぐにワイナピチュと遺跡全体が見えてくる。この遺跡、当時の小都市の建設はワイナピチュに登り計画したと思われ、この峰と遠くアンデスの峰々、ウルバンバ川の峡谷そしてこの小都市とこのバランスが絶妙である。
太陽の門と呼ばれる入り口から太陽の神殿、インティワタナ(日時計)、水路など一連の遺跡を見て回る。日本のツアー客はもとより、イタリアの陽気で愉快な年配の女性の団体、米国その他観光客は結構多い。見て回るのに2,3時間はかかるであろうか。この目的には色々な説があるが、当時5000〜10000人が住んでいたと云われ水路、段々畑が見事で自給自足の生活をしていた。少し離れた小高い丘から夕焼けに変わるマチュピチュを堪能する。ほんとうにマチュピチュはインカそのものである。

マチュピチュの朝

 夜中に凄い雨音で目を覚ます。雨か、困った。この雨では朝もやにけむるマチュピチュを見に早く起きようという全ての計画が台無しだ、どう過ごそうかなど夢うつつでまどろんでいた。朝5時過ぎに目を覚まし、窓からマチュピチュを見ると意外に雨はすっかりあがっている。ホテルの朝食は昨日5時から営業していると聞いていたから、良し起きよう。昨日の賑わいとうって変わってあまり泊まり客はいないのか、人は疎らである。朝食をゆっくり済ませまだ薄暗い6時に出掛ける。コースはいくつかあり、ひとつはワイナピチュの登山、マチュピチュを遠く眺めるためインカ道を登る、また遺跡を巡るコースだ。
選んだのは、朝日が出るまで遺跡をもう1度見て、そこからマチュピチュを遠く眺めるためインカ道を登るコースである。まず昨日の遺跡をもう1度見て回る。朝早いせいか人は殆どいない。誰もいないマチュピチュのシンボル、太陽の神殿に立つ。マチュピチュ、まさに空中都市、スペイン人も見つける事が出来なかった、こんな場所によく作った、誰もいないマチュピチュ、氷河をたたえたアンデスの白きたおやかな峰、インカもまだ眠っている。

いよいよ朝日がアンデスの峰から射し込んで来る。マチュピチュの朝、インカの朝だ。今この世界の遺産に一人しかいないと不思議な想いにかられる。遥か遠くここに住んでいたインカの人達を想い何か胸が一杯になり、昨日と違った感動がこみ上げる。ほんとうに幸せな気持ちだ。この空中都市は何の目的で作られここに住んでいたインカの住民はどこにいったのか。いくつかの説がある。伝染病おそらくコレラにより全滅した、また黄金を全て持ち去りもっと奥深く入っていった映画にもなったエルドラド説などである。
ここをスペイン人に見つからなくてほんとうに良かった。他の遺跡は全てがスペイン人の手により破壊されている。夜中の大雨が嘘のように太陽の照りつけが激しくなる。宮崎駿雄のアニメ天空の城ラピュタに思いが重なる。午後はまたハイラム・ビ
ガム道路を下り、アグアスカリエンタス駅からクスコに入る予定のためインカ道を急ぐ。このコースは遠くにマチュピチュを眺めながらなかなかいいコースだ。クスコからマチュピチュに入るトラッキングコースにもなっている。途中でも現地のポーターとすれ違う。
登る途中の色々な植物、カトレアの群生、サボテン、寄生植物などなど植生が複雑で学術的にも調査すると面白いのではないか。また花も豊富なためハチドリを初めて見た。あのナスカの地上絵にも描かれているとうりこの地域にはたくさん生息しているのか。光線の加減で色々変化するが濃い緑の小さな鳥で花の蜜を吸うためホバーリングし、なかなかすばしこく写真に撮るのは不可能だ。また野生のリャマがこの一帯に住んでいる。ワイナピチュを見下ろし、アンデスを遠く眺める、インカの関所みたいなところまで行き、またもと来た道をたどりいよいよマチュピチュともお別れだ。

グッバイボーイよ永遠なれ

 インカ道からマチュピチュ・ルーインズホテルに着き、昼食を済ませそこからアグアスカリエンテス駅に向かうバスに乗り込む。バスの外にグッバイボーイが現れる。年は12,3歳か、民族衣装をつけバスが走り出すとグッ〜バ〜イと独特な節回しと腕の振り方でバスの乗客を見送る。バスはジグザグにもと来たハイラム・ビンガム道路を下る。
しばらく行くとそのとき、何とその少年がまた現れグッ〜バ〜イと見送る。またバスはつづら道を下るとまたまたその少年がグッ〜バ〜イと現れる。あの独特な節回しと腕の振りで。これを何回か繰り返し駅の近くまできてバスの前を走ってバスを止め乗り込んでくる。乗客皆に回ってチップを要求するが、何ともこの演出、愛らしさに皆がチップをはずむ。乗客は写真を撮るがにっこり笑ってポーズをとる。初め3つ子か4つ子が待ち受けて現れたのかと思ったが、バスはジグザグ行くところを少年は直線を一気に下ってバスを待っていたのだ。どうもマチュピチュのグッバイボーイと呼ばれ有名らしい。帰りはちゃっかりバスに乗ってまたホテルに戻っているようだが、この少年の将来の幸せを念ずにはおられない。

浮き島のチチカカ(Titicaca)湖

 クスコからチチカカ湖のある町プーノまでバスで6時間。3300mから4300mのララヤ峠を越えチチカカ湖のほとりにある3855mのプーノの町へ着く。チチカカ湖は琵琶湖の12倍の広さであり、ボリビアと国境を分かち、1/3程がボリビア側である。ケチュア語のチチはインカでも神聖な動物とされるピューマ、カカは石、つまりピューマの石という意味らしい。ピューマを神とあがめているのは世界でも珍しい。トトラの舟をバルサと呼ぶが舟先にピューマの顔をかたどったものがつけられている。
プーノの桟橋からモータボートで40分浮き島ウロス島に着く。島といってもここは水辺に育つ植物のアシ、トトラを積み重ねた浮き島なのだ。ウロス島はたくさんのトトラの島からなり、大きな島には学校もあるのには驚いた。島に住むウル族は、島はもちろん舟、家、燃料、食料と生活全てトトラに依存している。島はほんとうにトトラを積み重ねただけで島に入りちょっと油断すると足が水に浸かってしまう。
島全体にインディオの女性が座りこみ織物、民芸品などの土産物を売っている。必ず2、3人の子供を抱えており、その子供が観光客にキャンディーをせがむ。観光客が悪いのだが、子供たちが虫歯にならなければよいが、またトイレはどうしているのだろうとチチカカ湖の汚染を考えざるを得ない。島のトトラの家には太陽電池みたいのがあり電気がきており、確実に島の人々の生活は変わっているのであろう。 
                                  

アディオス(Adios)、ペルー

チチカカ湖の見学で今回のペルーの旅もあっという間に終わりを告げた。プーノ近郊のフリアカ空港からアレキバ、リマ空港に着きまた帰りのダラス経由の長旅である。リマ空港ではことのほか、アメリカン航空の係員から、荷物を預けるとき色々な質問を受けた。荷物のパッキングはいつ行ったか、今まで荷物はどこにあったか、誰かに荷物を預かっていないか、などなどであり麻薬などの持ち出しがあるのか、荷物も念入りに調べられた。コカ茶を少ししのばせたためどきどきであった。
ペルーの食べ物は、高山病の時以外は全ておいしく食べる事が出来た。豊富な白身魚、アンデス原産のジャガイモ、粒の大きいとうもろこし、アルパカの肉などである。飲み物も有名なクスコのビール“クスケーニャ(Cusquena)”、リマ近くの町ピスコの蒸留酒ピスコサワー、昔のなつかしい味インカコーラなどよく飲んだ。ペルーの土産物は何といってもアルパカのセーターだ。アルパカはリャマと同様ラクダに近い動物でよく放牧されている。毛が柔らかく最高級であり、セーターはホテルの店で100ドルくらい、インディオの女性は10ドルくらいでアルパカ、アルパカと称して売っている。民族音楽も盛んで、ホテルのレストラン、空港などでグループが、ギター、ケーナ、名前は分からないが竹を積み重ねた笛などの演奏を聞かせ、その後チップを取って回る。竹の響きのここち良い演奏でコンドルは飛んでいくは最高だ。

今回は短い休みを何とかやりくりし、ほんとうに来て良かった。ペルーの太陽と広大な自然、アンデスの山並み、インディオの人々、ハイラム・ビンガムなど感動を与えてくれてほんとうに感謝したい。学生の頃、東大の文化人類学者泉靖一のインカ帝国という本を読んでから、いつかインカの地を踏んでみようと思っていた。今回の旅で何10年ぶりかに念願がかなった。南米にはまだまだ面白そうなところがふんだんにある。パタゴニア、ガラパゴス、ギアナ高地などだ。当分行けそうもないがスペイン語、ケチュア語を勉強し計画だけは練っておこう。 

                            以上